この間、Youtubeで日本の老人90歳以上の人がマクドナルドで働いているというニュースを見た。その数は千人を超えていて、なんと長寿でなんと元気で、なんと働き者か、と思ったのだった。
「老人をうまく使っている」という見方もあるだろうけれど、本人がそれを喜んでやっているというのと、その人にとって全くマイナスでないととらえて、なんというか、生き生きとやっているのを見るのは気持ちのいいものだ。個人差はあるだろうけれど、先進国の欧米ではあまり理解されない考え方だと思った。
ダーリンにこのニュースを伝えると、「Why?」と普通に疑問に帰ってきた。要するに、なんで95歳にもなってマクドナルドで働いているのか、なんでリタイアしてゆっくりとよい生活を送っていないのか、というのが普通に理解不可能なのだった。
これは日本独特の考え方なのだろうか。「貧乏暇なし」の良さというか、そういう生き方が染みついている日本の一般庶民として生きていると、何の疑問も感じず、「とっても素敵」と思う。それから「世間に迷惑をかけないように生きたい」という謙虚さが、良しも悪しも諸外国にはあまりない考え方だと思う。確かに、自分自身が90歳過ぎて、マクドナルドの清掃員になって働いていたいか、と言われたら、それは疑問であるという本音もしかり。ダーリンの「Wyh?」という疑問もわからなくもない。
ただやっぱり、働くことが「趣味」という感覚の人と、基本「働き者」が染みついているご老人が多いのが日本なのではないかと思う。もしもほかに趣味を持っていたら、おそらくその趣味をもっと楽しめるように生活したいと思うだろう。けれど、何をするにも体が主本だから、何かしら体を動かしていて、それでいてお給料もこずかいがてらちょっともらえるならばそれに越したことはない、という考えはこちらの人でもあると思う。現にそういう人を見たことはある(清掃員ではなかったが)。それにしてたって、90歳過ぎても、というのはやっぱり珍しい。とはいえ、日本でもみんながみんなではなくて、本当に元気なご老人だけができる技であろう。そして何よりも、こういったご老人には「頭が下がる」ではないか。
私はかねがねデヴィ夫人はすてきだなと思っていたのだけれど、最近彼女の「ずれた感覚」というか「発言」を聞いて、ものすごく違和感を感じたことがあった。それは、「私よく言っているのは、あなた方は毎日生活をしてますけれども、私は生活をしているのではなくて、毎日”生きて”います」という発言だった。ようするに、同じルーティンを繰り返して日々を送っているのではなくて、何かと戦ったり、応援したり、チャレンジしたり、味わったり、日々刺激的でその瞬間瞬間を楽しんでいる、というのが「生きている」のと「生活している」との違いらしい。
結構なことでございますが、日々のルーティンを祈りをもって丁寧に生活していること、その人々の感覚を知らずして、どうして政治的活動ができるのか、という、よくある政治家のずれと同じことを感じた。私も偉そうだけれど、でも、本当に心の底から尊敬できる人って少ないというか、デヴィ夫人もどこかしら「あー、なんだ、やっぱり自分を特別謳歌している人間かも」と思えた。と、それはそれで、人間そんなもので、自分を大事に毎日過ごしているのがまず第一歩でいいんだと、逆説的に教わる。もちろんデヴィ夫人の「覚悟を決めて、自分の決めたように生きる」その生きざまを、そういう目線で参考にすれば、それはそれで素晴らしいと思う気持ちは変わらないけれど。
だから、本当に頭が下がり、尊敬する人というのは、謙虚に90歳過ぎても生き生きと働いている人だと言う事で、今日は結ぼう。
なんだかまた夏が振替してくるらしい来週の予想。
また一週間💛