写真は、いつもレッスン中にこうやってわざと邪魔をするScruff、クライアントGの愛娘(愛犬)。
さて本日はある女性、レズビアン、フリーライター、作家、ジェンダ―問題のアクティビストについて書いてみようと思う。
ある日仕事から帰ると、ダーリンが「NorahVincentってしている?」と言う。「うーん、知らないと思う。どうしたの?」「彼女はフェミニストで、レズビアンで、男性のふりをしてしばらく生きてみた後、うつ病になって自殺しちゃったよ。」「うーん。なんで鬱になったのかな。」「Well,男性は思っていたより良い人間だとわかったから。」いや、そんな理由じゃない、と疑った自分。さっそくNew York Times マガジンの記事を見つけたので読んでみた。
Norahは法律家の父親と女優の母の間に生まれ3人兄弟。父と母は離婚をしている。21歳の時に自分はレズビアンだとわかったという。イギリスとアメリカの両方で育つ経験をしており、大学では哲学を専攻。のちにフリーランスのジャーナリストとなり、Los Angeles Timsなどのコラムなどでも活躍。いくつかの書籍も出版している。自身ではレズビアン、ポストモダニズム、マルティカルチャリズムと称していた。
2003年、彼女が35歳だったとき、男性として生きる実験をした。メークアップアーティストの力を借りてメークはもちろん身なりも男性らしく、でっぱりを抑えるところ出すところも見事に作り出し、ニューヨークのジュリアードスクールで数か月のボーカルレッスンと動きの指導を受けた。そして18か月間、Nedという名で男性世界へ飛び込む。
ある時はブルーカラーのボーリングリーグの一員となり、仲間に支えられながらあまり上手でないボーリングを楽しんだ。仲間は彼女のお辞儀の仕方が女性っぽいので、彼女のことをゲイだと思っていたという。ある時は男性修道院の一員となったり、ストリップクラブにいったり、ドアツードアのセールスマンをほかの同僚と一緒にしたり。バーでは女性とデートしてみたけれど、たいていの女性がひどい扱いをしたという。最後にIron John Retreatというワークショップに参加する。これは私の理解したところ、男性が本来持っている男性らしいパワーみたいなものを失った人が何とか自分を取り戻そうと参加するセラピー的なワークショップだと思う。このワークショップを最後に彼女は精神科の病院へ鬱病になって入院する。入院中には頻繁に自殺行為につながるような薬の乱用などのエピソードが続き、そして2022年53歳のとき、スイスの病院で医学的なアシストを借りて自らの命を絶つ。Assisted deathはアメリカでは違法、スイスやドイツ、カナダでは合法。ほかにもあるのかな、合法な国。ちなみにカンダでは合法ではあるものの、まだメンタルの病気に関しては合法になってないか、今検討中というところだったと思う。
生前彼女はTVのインタビューなんかでも出ているのをYoutbueでも見つけた。この経験で男性として生きるというのはなんていうプレッシャーを背負いながら生きなくてはいけないかとか、いろいろなことを話している。彼女の鬱は男性が主に経験している鬱の原因と同じ原因でそうなったと彼女は言っていたという。
彼女はアイデンティティーの問題にも興味があり、非常にアクティブに生きていた人だと思うけれど、ある意味この実験では自分のアイデンティティーを隠して生きてみたという点で、それだけで精神的に大変なことだと私は思う。プレッシャー自体は男性女性に限らず、その人の置かれた状況で受けるものが違うと思う。それから、男性と女性はもともと違うと思うから、レズビアンが男性と一緒に同じことをするということがその人に幸福感を与えるとは到底思えない。
一方で、女性が男性社会で活躍したいと思った時、ものすごいプレッシャーと壁があるというのは、彼女の実験から逆に思い知らされている気がする。またその逆に、時々女性の多い職場で男性がマイノリティーにいて、彼らが貴重がられている様を見ることがあるが、そいう男性はきっとちょっとアドバンテージを感じているんじゃないかといつも思う。これは私の、男性に関しての偏見だと自覚はある。
元に戻って、ダーリンが私に言った彼女の鬱の原因は、やっぱり100%ではないとしても大部分間違っているという結論。彼女は自分のアイデンティティーを犠牲にして実験を行ったことがひどくダメージになり、そこで体験したことは本来糧となるはずが、思ったより彼女自身が「女性」で、不本意な世界にいたからではないか、と思う。
まだまだ男性が権力を握っている社会の中では、女性として男性と同等に立ち向かうにも大変な社会で、それが男性の作り上げた社会だから自業自得(男性にとって)と私は思ってしまう。もちろん女性が権力者になった時によりよい社会になるかというも疑問だけれど。
もう一つ彼女が言うのに、女性たちの、男装した彼女に対する態度や扱いがとてもひどいのに驚いたという点がある。女性にとってそのぐらいの警戒心がなければ、フィジカルな力的にも弱い女性としては危なすぎるから当たり前ではないのかと私は思う。つくづく私って、女尊男卑。
それにしても、「対(つい)」という日本語を英語に訳した時から意味が分からなくて、今も「どっち?」と思うのだけれど、初めはペアーとか一セットのような意味で、両面は一緒というイメージを持っていた。でも、反対側という意味はもっといろいろあって、いわゆる「裏」という意味にもとれる。それだと比例しているけれどまったく違う物、というイメージがあり、私の頭をなぜか混乱させるのだった。でも、やっぱり後者の方が近い意味かもと思う。なぜならそれは、陰陽とか、世の中の半面とそのまた半面というのは相異なっていて当然なんだろうと妙に納得したからだった。そう、男女のように。
ふー、こういうこと深く考えると疲れるので、ふらーっとNetflixへ。シャーロックホームズの妹編の映画のNo2があったのでさっそく見ていた。この妹編の映画(Enola Holmes)、女性の活躍が目まぐるしい。No2では実際にイギリスのマッチ工場で起きた、ある一人の女性の勇気ある行動をもとに描かれていた。なかなかスカーっとする精神的に良い映画だった。フェミニストよりも女性としての武器をしっかり使いながら時に男勝りにいい仕事をし、男性を影の助っ人として備えている、というのがかなり見ていて気分がいいのであった。
それにしてもやっぱり、ちょっとは動いてよ、と仕事から帰ったら居間の椅子かベッドの上で動かないダーリンに思うことはあるけれど、経済的なプレッシャーをとにかく全部受け持っているダーリンにはやっぱり感謝。私の対。
今週は寒かったー。また一週間💛